タイトルイメージ 本文へジャンプ


閑話 「剣岳・点の記」

                             八田義一


昨年、新田次郎原作の小説「剱岳 点の記」が映画化され上映された。剱岳ブームとなりさぞかし大勢の登山者が押しかけたことであろう。昨夏、ある山小屋のホームページには剱岳山頂から下山しようとする登山者が長蛇の列をなしている様が望遠レンズで捕らえられ、カニのタテバイ周辺で渋滞中、ただ今の待ち時間は1時間、などという冗談めいた文章が出ていた。

さて、私はこの19日、NHKハイビジョンTVで「特集・剱岳測量物語―難攻不落の頂を極めた明治の男たち」という番組をみた。これは昨年の秋にHNKハイビジョンTVの日本の名峰スペッシャル「剱岳測量物語―明治40年“点の記”」として放映されたものの再放送である。100年ぶりに世に出た新資料をもとに、明治40年に剱岳の頂を極めた陸軍陸地測量部柴崎芳太郎測量隊の行跡を追体験するという形で作成されたドキュメンタリー番組である。ご覧になった方もおられることと思う。私は昨年秋の放送は見てなかったので、1月の放送が初見である。

この番組は現在の国土地理院の測量官であるAさんや山岳ガイドから成るパーティ(NHK隊)が柴崎隊の辿った剱岳登頂への幾つかのルートを忠実に辿って当時を再現するというすこぶる興味深い番組であった。100余年前、道無き所を行く柴崎隊の成した剱岳登頂がどんなに困難なことであったかが実感としてわかる内容だった。

さて、私はひとつのことに思い至った。それは柴崎隊が現在の長次郎谷に登頂のルートを最終的に決めたのはどういう判断によったのかということである。新田次郎の原作では、早月尾根、別山尾根それぞれのルートからの登頂に失敗し、登頂ルートの発見に苦慮していた柴崎と長次郎がかつて室堂玉殿の洞窟にいた行者から聞いた“雪を背負って登り、雪を背負って帰れ”という謎めいた言葉から「ルートは雪渓にある」というヒントを得て、最終的にこの谷(長次郎谷)にルートを求めたとなっている。ここのところを原作で再現すると、再度玉殿の洞窟を訪れた柴崎と長次郎がそこで“われらを剱岳の頂上へ立たせ給え、頂上への登路を示し給え”と一心に祈ったところ、再び“雪を背負って登り、雪を背負って帰れ”という今は亡き行者の声が聞こえたという不可思議な体験をし、行者の言葉の謎が解け、剱岳への登路が頂上から剱沢へ落ちる2本の雪渓のうちの右の雪渓(長次郎谷)であることを確信し、好天をつかんで登頂したとなっている。しかし、これは小説としてのストーリーである。このような話の展開にすることによってこの小説は一層ドラマチックなものとなっているし面白い。

ストーリーとしての面白い展開はさておき、実際のところ長次郎谷の雪渓にルートを求めたのはどういう判断によったのだろうか。測量官という近代的科学知識を身に付けた技術者であった柴崎が行者の謎の言葉だけで登頂ルートを決めたとは到底思えない。ここで先のNHKの番組に注目すべき映像があった。別山尾根からの登頂に失敗した柴崎隊はその後、測量のため真砂からハシゴ谷乗越を経て黒部別山へ登り、そこから剱岳を測量しているのだ。NHK隊も忠実にこのルートをたどり、今はブッシュに覆われている黒部別山山頂に彼らが設置した三角点を発見している。このハシゴ谷乗越から黒部別山へ続く尾根は剱岳の東面と対峙しているので、この尾根のどこかから柴崎隊は剱岳東面を観察し、右の谷(長次郎谷)の雪渓が剱頂上から右方へ続く尾根の鞍部(長次郎のコル)に突き上げているのを目にした筈である。原作の中でも長次郎が“実は旦那とつい先だって黒部別山に登ったとき、朝早く起きて朝日に輝く剱岳の頂上を見て参りました”と言う箇所がある。当然作者は柴崎隊が黒部別山へ登った記録を基にここのところを書いているのだ。私は今から24年前の5月にクーラカンリ遠征から帰って間もない山田健君、村山誠之君という屈強のパートナーと共に内蔵助平からハシゴ谷乗越を経て剱沢へ降り、長次郎谷から剱岳の頂上へ登ったが、この時、ハシゴ谷乗越から紺碧の空の下、真っ白な雪をまとって豪快に聳え立つ剱岳東面の全貌を余すところなく見た。遙かに白い雪に覆われた剱岳の山頂が見え、同じく雪に覆われた長次郎のコルとそこへ突き上げている長次郎雪渓の上部が望見された。柴崎隊一行も恐らく同様にこの谷の上部と雪渓が鞍部(長次郎のコル)へ突き上げているのを初めて見て、この谷からならば登頂出来ると確信したのではなかろうか。早月尾根、別山尾根からの登頂を試みて失敗し、残る可能性をこの(長次郎)谷に定めていたかもしれないが、黒部別山へ登った折に、恐らくハシゴ谷乗越あたりから(長次郎)谷の上部を観察できたことによってこの谷からの登頂を確信したと思われてならない。ご承知のように長次郎谷は剱沢出合から“く”の字形に屈曲しているので、出合からは谷の上部は見えない。彼らはここへ来て初めてこの谷の上部の様子を見ることが出来たのである。行者の言葉はヒントではあったが、やはり正確な偵察によって剱岳への登路を発見したと見たほうが近代的科学知識を身に付けた柴崎にはふさわしいと思うのである。 “この谷からならば剱岳の頂上に達することができそうだ。行者様のお告げはこのルートのことを言っておられるのであろう。”柴崎芳太郎と長次郎が顔を見合わせて登頂可能なルート発見に顔を輝かせながらそのように話し合っている様を私は一人楽しく想像したのである。

テレビ「剱岳測量物語」では最後の所で測量官のAさん達が剱の頂上で最新の測量機器であるGPSを使って剱岳の標高を測量する場面があった。その結果は、剱岳の標高は2998.42m。今を去る104年前の明治40年に柴崎隊が経緯儀で測量して出した標高は2998.02m。その差はわずか40cmであった。彼らの測量がいかに正確なものであったことか。「柴崎隊の業績に深い敬意を表したい」と感慨深げに言うAさんの言葉には実感がこもっていた。柴崎隊は剱岳を取巻く十数ヶ所の山頂から剱岳を測量観測したとのことだ。その測量結果が先の標高である。当時のことだからその多くは道もない山々であったであろう。100キロにもなる測量機材を担いで時に1ヶ月、2ヶ月とかけてそれらの山々を測量して廻った柴崎測量隊の活動を思うと、かつて立山、剱岳周辺を1週間位の合宿をするため荷物担いでヒイヒイ言いながら歩いたことのある者には溜め息が出て来そうである。

2010年3月

お知らせ
  • 八田さんからacku.netに掲載できないかとご依頼がありました。カンリガルポ遠征の報告書「山と人」18号の編集に追われて掲載が遅れました。 八田さん、お許しください (Home Page編集子)
  • 写真: 剣沢から剣岳
    2009年8月 カンリガルポ山群遠征のトレ−ニング合宿にて(井上達男)