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僕の原爆疑似体験(僕の戦後)

2010年8月。高田和三


僕は昭和16年4月(1941年)大阪の中心(船場;安堂寺橋1丁目;旧町名、現在中央区)で生まれました。実家は戦前から手広く金物問屋を営んでおり、蔵が2つあったと聞いております。昭和20年の終戦の年、3月13日〜14日にかけての被災で、すっかり焼けてしまったようです、いわゆる大阪大空襲です。そのため、両親と14歳上と10歳上の兄2人の家族5人が大阪のはずれの田辺(現在は東住吉区で住宅密集地)の叔父さん宅に疎開していたようです。当時4歳の僕がやっと物心ついた時期です、この年(昭和20年)の12月に父親が病死しましたので「親父;おやじ」の記憶をうっすらとしかありません。



「模擬原子爆弾投下跡地」の石碑

疑似体験をしましたのは、敗戦前の7月26日の朝です。僕が家の前で遊んでいた時、突然地震のように、地べたが動き、ひっくり返り、泣きながら家に入りました。その後、風邪で高熱を出したり、大きくなって(悪夢)をみるとうなされたようです。具体的な記憶ではないのですが、今世間でよく言われている「PTSD」なのでしょう。山で皆様に迷惑をかけている僕の「寝言」の遠因かもしれません。僕はこの後、この田辺小学校に上がり、その後奈良の(法隆寺)「斑鳩小学校」最後は「芦池小学校」と母親と一緒に親戚を頼り、転々と移り代わりました。今はこの、斑鳩小学校も芦池小学校も統廃合でなくなっております。



14歳上の長兄と高田和三(69歳、左)

先日、田辺の叔父さんが100歳を迎えられたので、祝いに「田辺」を我々兄弟3人で伺いました。100歳の叔父さん、84歳と80歳の両兄、来年70歳の僕です、尽きるところ「昔話」です。しかし僕にとっては、小学校に上がる前の話は大変貴重でした。米軍の原爆想定のための1トン爆弾は、僕にとって「不確かな体験を明確にする」話でした。

当時は米軍が「間違って落とした」と回りの「大人達」は言っておりました。しかし7月26日の夏休み中とはいえ、田辺小学校を避け、集落密集地を避けて落とした事は「原爆投下のための実験」といえます。1トン爆弾の後地は、池になりました。この添付している写真の石碑は街の有志が民間の力で建てたようです。この石碑が、米軍が計画して投下したのかどうかを解明した上で建てられたとは思いませんが、「田辺小学校の塀の西側」に投下され、住宅を避けたので6人の犠牲者で済んだこと、2週間後には広島、長崎に原爆が投下された事は事実です。さらになにより僕にとっては、4歳のうっすらとした記憶がクリヤーになったことは「僕の戦後」を考えるきっかけとなりました。

その後、年の離れた「兄たち」は敗戦後の動乱時代を生き抜き、僕は、いわゆる「母子家庭」として育ちました。その母親も27年前なくなりました。僕だけが「大学へ行かせてもらい」、意向に従わず「好きな山登り」をさせてもらいました。社会に出ても「転勤族」で優しい言葉の一つもかけておりません。敗戦後、女手一つで育て、苦労をかけた母親に孝行が出来なかったことを悔いております。

最近、山仲間や、付き合いの長い友人との「別れ」が多くなりました、僕もそろそろ「死に支度」をせねばならぬと思っております。戦中・戦後の多くの方々の犠牲の基に、僕が生かされたのは間違いありません。「無為徒食」を堪能する覚悟は出来ておりますが、何か「世間様」にお返しせねばと思うばかりです。以上僕の戦後です、では失礼します。


記事へのコメント
  • 高田和三さんから珍しい体験談が寄せられました。事実かどうかは詳しく検証された記録などあれば知りたいものですが、現場にて遭遇それた方のお話には迫力があります。
  • 戦争は人々の人生に大きな影響を及ぼしますが、二度と起こしてはならないと強く思わせる逸話ではないでしょうか。(編集子 2010/8/2)
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