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2007年神戸大学・中国地質大学(武漢)カンリガルポ山群偵察隊報告(速報)

by Yamada

 

期間 20071025日~1119

隊員 神戸大学【ACKU】 

隊長   山田健   兵庫県職員        52歳 

1986年神戸大学チベット学術登山隊隊員)

      隊員   近藤昂一郎 神戸大学理学部学生    21

      隊員   岩澤貴士  神戸大学発達科学部学生  21

中国地質大学(武漢) 【CUG-W

隊長   牛小洪   中国地質大学体育部副教授 39

      副隊長  周云    中国地質大学体育部講師  36歳  

      隊員   李倫    中国地質大学体育部講師  30歳 

      隊員   石磊    中国地質大学地学院研究生 27

合計   7人

行動記録

10月25日(木)

 関西国際空港で井上会長の見送りを受け、3人元気に出発する。荷物は個人のザック以外に9個。事前に中国東方航空にネゴしており、一人あたり30kg(通常は20kg)までの枠をもらっていたが、それでも約100kgのオーバーである。受付の女性の配慮(恣意的な計算ミス)で10kgまけてもらい88kgの超過料金を支払った。

 上海浦東空港でトランスファーホールを経由し税関検査もなく乗り継ぎ手続きへ。ここから昆明に直行する近藤、岩澤を上海虹橋空港へのバスに乗せる。山田は浦東空港から武漢への飛行機を待つが、約1時間遅れで16時30分に飛び立つ。18時武漢着。董さんと趙女史の出迎えを受け、中国地質大学へ向かう。武漢市内は建設ラッシュとのことで、スモッグがひどい。大学のある地区は市内を抜けて東湖の対岸にあり、幾分スモッグは少なくなっている。食事の時に、牛さんと李さんが合流。先発の周さんと石君は昆明で無事近藤と岩澤に会えたそうである。

 食事後にチベット登山協会への支払い額の調整状況の説明を受ける。チベット登山協会からは、未開放地区入域料として1万ドルを要求されているが、これは今年の偵察隊にも適用されるとのことで、これを北京の登山協会に仲介に入ってもらって減額交渉を行っているとのこと。このほか、当初は外国人来華登山料3万ドルを要求されていたが、これは交渉で免除されたとのこと。また、大学からは5万元しか予算がない(すでに2万元は使った)ので、これを超える分は神戸大学で負担してほしい、自分が努力して3万ドルを免除してもらったのでこれを評価してほしいとのことであった。とにかく、費用分担は自分では決められないので、後日の話としてもらい、チベット登山協会への支払いは額が決まれば董さんから井上会長に連絡し、とりあえず日本から送金することとした。その際、チベット登山協会のレギュレーションと計算書を井上会長に送るように要請した。(偵察隊帰国時点で未受領)

10月26日(金)

 9時より学長に面会し、神戸大学長からの親書と土産(神戸大学のボールペン、酒、ACKUバッジ)を手渡す。学長のメッセージ「中国地質大学と神戸大学は以前より登山交流を行って20年前は雀児山にともに登った。今回も一緒に登山する事はよろこばしい。当大学は登山が盛んである。歴史ある神戸大学と交流を続けたい。偵察には気をつけて行って来てください。来年1月にこられるときに、神戸大学長への返書を託したい。」

 10時、井上会長に電話で昨日の董さんの話を伝える。また北京の李豪傑副部長に電話で仲介のお礼を言う。

 昼食後、牛、李と空港へ出発したが、またもや飛行機が遅れていて5時間くらい待たされて17時55分に離陸。昆明に19時40分着。空港のすぐ横の「機場航管楼」に泊まる。

10月27日(土) 快晴

 5時起床、まだ暗いうちに空港へ。7時20分中甸行きの飛行機が出発。日の出と同時に飛び立つ。中甸につく直前に梅里雪山がきれいに見える。遙か西北にカンリガルポが見えるはずであるが、特定できない。東にはひときわ高いミニアコンガと思われる山が見える。納泊海と呼ばれる季節湖の上を飛んで、8時10分中甸空港に到着。近藤、岩澤、周、石に迎えられる。手配していた車に乗って市内で朝食を取る。予定していた徳欽経由の道は徳欽・芒康間で「修路」中で通行不能のため、得栄経由で芒康まで今日中に行くとのこと。船原の碑がある飛来寺に寄れないことが残念である。9時中甸出発。中甸高原から金沙江本流に降りて、さらに支流に沿ってさかのぼり得栄に12時30分に到着。昼食をとり出発。一つ高原状の峠を越えて、再び金沙江本流に出て、延々本流沿いにさかのぼる。暗くなり始める頃、巴塘手前の金沙江大橋にたどり着く。21年振りにチベットに入る。支流の西江に沿って約2時間、20時50分にようやく芒康に到着する。ここで、ラサから来た連絡官、大其米(ターチーメイ)と合流する。彼は見た感じは「ゴリラ」そっくりで、チョモランマ頂上に3回登った猛者である。ジープとトラックが来ている。ジープドライバーは尼馬次仁(ニマツーレン)、トラックドライバーは巴桑次仁(パサンツーレン)。

10月28日(日) 快晴

 午前中は、芒康県警察の外国人通行許可を取るために、連絡官が手続きをするので待たされる。市内見物に行くと「維色寺」という大きな寺がある。裏山に登って町の写真を撮っていると、いやに大きな鳥が飛んでいる。ということは・・・、と考えていると、下で住民が降りてくるように手招きしている。どうも鳥葬の場所だったらしい。昼食後、左貢に向けて出発。金沙江(長江)と瀾滄江(メコン)の分水嶺を越えて、草原と針葉樹の美しい斜面を降りていく。黄葉のきれいな多美村を抜けて一気に瀾滄江へ下る。本流に架かる橋を通って右岸にわたり、また一気に山腹を上り返す。本流沿いはほとんど植生のない荒々しい斜面が続いている。「深い浸食の国」にふさわしい光景である。地の底から天上へ上っていくようだ。登り切った峠からは南の方角に尖った雪山が見える。位置からして梅里雪山から北に続くドンリガルポの一部らしい。いったん登巴村まで下ってから川に沿って東達拉、瀾滄江(メコン)と怒江(サルウィーン)の分水嶺に登っていく。GPS測位で高度5089m。頭がボーッとする。この峠を下って左貢に着く。岩澤がダウンして、食事抜き。

夕食後連絡官が牛、周を連れて部屋に来て、いきなり未開放地域での測量は許可されていないためもし見つかれば全員逮捕されると言う。なんと言うことか、それを第1の目的としてきたのに。また、撮影した写真の検閲があるとのこと。そんなことをされて大事なデータを壊されたらたいへんである。カードの使い方を考えないといけないと思った。また、然烏からラサに行く方がジープ代が安くなるとのこと。それはどちらでも良い。ラサから中甸行きの飛行機に乗ればすむことである。

10月29日(月) 曇り後晴れ

 左貢8時30分出発。今日は雲が多い。道路は舗装されている。邦達10時45分通過。11時、少し雪の残る業拉山に登る。GPS測位4616m。また一気に怒江へと地の底に下っていく。本流に出て、上流へ少し行くと、ゴルジュの中に橋が架かっている。右岸にわたって、本流と分かれ支流に沿って登っていく。以前はこの支流は赤く濁っていたが今は澄んでいる。赤茶けた山が近づいてくると八宿の街に入る。13時、昼食をとり、米などの購入をする。15時出発。川をさかのぼり、怒江(サルウィーン)と帕隆藏布(ブラマプトラ)の分水嶺の安久拉を越えて、然烏に16時40分到着。以前見たように湖の向こうに雪山が拡がり美しいところである。ここにはネットカフェがあり、井上会長にeメールを送り状況報告する。ジープを拉古に待たせていると「留車費」として期間にかかわらず4千ドルかかるとのことなので、明日、拉古まで行った後、ラサへ返すこととする。

10月30日(火) 曇りのち晴れ

 9時出発。察隅への分岐点に着いたが、ルオニイの方角は雲がかかっているため、3姉妹峰が見える中村保さんの撮影ポイントへは下山後にいくこととして、拉古に直行する。途中で3姉妹峰の第2峰の頭が見えた。モレーンの下にゲートがあって入域費を徴収している。10時40分拉古到着。村人の歓迎を受ける。早速2003年の時の写真を出して見せると、ちょっとしたパニックになった。拉古には観光客用の招待所ができていて、そこに入る。連絡官が村長宅へ、明日のヤクの手配をしに行く。その際、村人への2003年の写真の配分をお願いした。後ほど聞いた話では、村長は4年前のことをよく覚えていて、帽子をもらったことが良かったとのこと。

 午後はゆっくりする。中国科学院のメンバーが20名付近の氷河へ研究調査に来ているとのこと。アタ氷河でなければよいが。ラグー氷河の方向はずっと晴れているが、アタ氷河の方はガスっている。それでも一時ガスが晴れて、稜線ごしにルオニイの頂上部が見えた。拉古部落からルオニイが見えるとは思っていなかったので意外であった。

 夕食後、連絡官は登山期間中ここに滞在するので測量器具はここに置いていった方が隊員の安全のために良いと言う。BCやその上に軍がいるはずもないが、地質大学の4人は顔色からして持っていかないように願っているようである。せっかく何回も測量の練習をして、重たい(超過料金を払って)のにわざわざ日本から持ってきたものをここに置いていくことは忍びなかったが、ここで我を通すよりも山中でのリーダーシップを保つほうが大事と考え、トランシットは置いていくこととする。その代わりに、水準器、コンベックス、GPSで簡易測量をすることとする。また、下山後、1日とって、裏山に登り3姉妹峰の写真を撮ることを約束させた。夜すごい星空で天の川もはっきり見える。山田、風邪症状。

 GPSデータ(LAGU:拉古招待所前) N29°1710.1″ E96°515.8″(±9m) 4124m

10月31日(水) 曇りのち晴れ

 朝、ヤクが集まってくる。9時15分出発。コーギンからルオニイを仰ぐ。ゴルジュ帯を高巻き、曲尺14時30分。山田、岩澤は調子が出ずに1時間ほど遅れて到着。昼食後、ヒョーナ平をへて乗越への登りでまた遅れて、最後にBCに降りる道を見失うが、検討をつけて下ると、テントが見えた。8人用、4人用テントとヤク工が持ってきたテントを張る。山田、テントに入ると同時に悪寒がしてふるえが止まらない。牛から風邪薬をもらう。

GPSデータ(KOGHIN:ルオニイ撮影地点) N29°1528.4″ E96°5210.3″ 4138m

GPSデータ(BC) N29°1312.1″ E96°4911.2″(±13m) 4291m

11月1日(木) 雪のち曇り

 山田、頭痛、めまいがひどい。朝食時、今日の行動予定を話合う。周から日中でロープワークの練習が必要なので、今日はABCへ向かわずに近くで練習したいとの提案。天気も良くないのでそうすることとする。朝食後、氷河の近くまで行ってロープワークの練習と氷河へ下りるルートを確認してBCに帰る。

11月2日(金) 雪

 今日は全員でABCへの荷揚げを行うこととするが、近藤と岩澤が中国人の分まで朝食を作っているので出発が遅れる。10時15分出発。氷河が後退していて、岩がごろごろして歩きにくい。天候悪く、ABCの少し手前と思われる場所に荷物をデポし、BCへ引き返す。BCへ帰ってから山田、悪寒がするので食事抜く。夜晴れてくる。

 GPSデータ(DEPO) N29°1216.5″ E96°4849.4″(±7m) 4384m

11月3日(土) 快晴

 全員ABCへ移動する。BCに8人用テントを残し、4人用テントをたたんでABCに移動させる。山田は昨日、食事を抜いたことが良かったのか、幾分気分が良い。近藤、岩澤は元気である。例によって朝の出発まで時間がかかる。9時45分出発。今日は天気が良く山々が見渡せる。氷河におりて右の比較的雪面の多いところから登る。昨日のデポ地点に12時45分到着。デポ地点の先の氷河上にできた小山の先にABCの位置を定める。13時30分到着。4人用テント、2人用テント×2張。近藤、岩澤、周、李、石の5人でデポの装備を回収する。雪原の向こうに、C1への斜面が見えている。4年前よりもクレバスが増えているのではないかと思われる。

 GPSデータ(ABC) N29°123.2″ E96°4842.9″(±7m) 4391m

11月4日(日) 快晴

 雲一つない絶好の登山日和となった。朝は相当に冷えたようである。今日はC1建設へ向けてルート工作と荷揚げの予定である。

 日本人3人が登攀具、赤旗を持って、アンザイレンして先行する。中国人4人は食料、燃料を持ってこれに続く。意外とクレバス帯まで遠くラッセルもあったため1時間を要した。ここからは中国人にもアンザイレンさせる。クレバス帯の下部は縦割れが多いため、どこから進入するか慎重に見極め、もっとも幅広い雪面に続くところから入っていく。クレバス帯は見た感じより安定している。この様子では十分にクレバス帯を突破できそうだと感触を得た。クレバス帯に入って1時間ほどしたころ、ラッセルがきついのでワカンを付ける。牛が追いついてきて、この先は非常に危険なのでこれ以上行かない方がよいと言う。「What?」我が耳を疑った。自分自身特に危険を感じることもないし、いったい偵察活動をどうとらえているのか。なぜかと聞くと、周が以前このような場所でパートナーがスノーブリッジを踏み抜いたことがあると言っているとのこと。残りの3人は経験がないため周に判断を任せている。怖がっている者を無理に連れていくこともできないし、君たちが行きたくないというなら行かなくても良いと告げた。ただ、ここで荷物を放り出されると、C1までの荷揚げが苦しい。そこであと1時間だけ荷物を上に上げてくれと頼む。4人で相談していたが、これ以上行かないという。仕方なく、ここにデポさせることとした。13時日本人だけで再びルートをのばすために出発。14時15分、ABCから見えていた斜面の上に達した。この先は何本かの横に割れたクレバスの向こうに平たい雪原が拡がっている。C1へのルートの目処がついたとの判断でここから引き返すこととする。赤旗を補充しながら下る。16時10分ABC帰着。

 牛に、今日のルートは危険が少ないと思うと言うと、それはたまたま通過できたからだというような顔をしている。「もし君たちが来年、本当に3姉妹峰に登るつもりなら、必ずあそこを通らないといけないよ」と言うと、返答に窮したようだ。これで、中国人は全く進む気持ちがないことを確認した。さらに、4人はBCに下りたいという。途中のキャンプを空にすることは良くないので、2人はBCへ下っても良いが、牛ともう一人はABCにとどまるよう指示した。また、無線連絡について、毎日8時、12時、17時に交信するように紙に書いて無線機とともに渡す。また、ABCで炊事できるように、なべ、コンロ、ガスなどを分配する。16時半ごろ李と石がBCへ下る。BCには8人用テントと必要な装備はすべてある。

 GPSデータ(ROOTKOUSAKU:4日到達地点) N29°1135.7″ E96°4736.9″ 4450m

11月5日(月) 快晴のち曇りのち雪

 今日C1が建設できれば、偵察活動はあとは天気を待つだけである。8時15分出発。日本人は個人装備などでかなり重い。牛、周には昨日の地点までテントほかの装備をもってサポートしてもらう。今日はGPSのトラッキングをしながら登る。昨日のトレースもあり、ピッチがあがる。クレバス帯の手前でアンザイレン。デポ地点9時30分。昨日あげた食料、燃料から、3人9日分を回収して、残りは牛、周にABCへ荷下げしてもらう。周の具合が悪いので今日牛が伴ってBCへおろすという。仕方がない。ただし、明日は牛が誰かとABCに戻るのだろうと考えていた。

テント、赤旗などの装備を受け取る。ぐっと荷物が増える。近藤、岩澤は30kgを超えているだろう。中国人という重荷から解放されるが、本当の重荷が身にかかる。重荷でのクレバス帯通過は危険が伴う。空荷でルートを付け、荷物を再ボッカせざるを得ないだろう。とりあえず昨日の到達地点までは荷を背負って行く。11時到着。横割れクレバスが増えるため、左右にルートをもとめるため、上流方向への距離が伸びない。ルートは安定しているため荷を背負いながら12時まで登るが、ここで行き詰まる(AAA地点)。空が曇ってくる。空荷でルートを求める。右へ100m以上行ったところに渡れそうなスノーブリッジがあった。そのあと、何回か右に左に大きく振って、最後のコーナーに微妙なスノーブリッジをわたる。13時にようやくクレバス帯通過の目処が立ったので引き返す。荷物(AAA)がすぐそこに見える。直線距離で100mもないぐらいのところにあるが、戻るまで50分を要した。再び荷物を持って、赤旗を補充しながら1時間かかって引き返し地点まで戻る。このころから曇っていた空から雪が降り出す。早くC1を作りたい。再び空荷でルートを付ける。1本埋まりかけたクレバスをわたると全くの雪原に出た。本当はもう少し上流に建設したいが、天候も悪くここをC1とすることとした。荷物をとりに帰り、持ってきた赤旗70本をほとんど使い果たしてC1到着15時40分。吹雪の中、テントを張る。今日がんばってC1ができたことは大きい。近藤、岩澤は頼もしい。

GPSデータ(AAA:行き詰まり地点) N29°1135.9″ E96°4732.0″ 4585m

GPSデータ(C1) N29°1136.3″ E96°4717.3″ 4588m

11月6日(火) 曇りのち雪

 朝視界があり、第3峰が見えるので出発する。8時半。氷河の奥へ進むが、雲が下りてきて見えなくなったので、9時15分引き返す。9時50分帰着。午後、一時晴れ間もでるが3姉妹峰はガスの中である。中国へきてから初めて日本人だけでゆっくりする。12時の交信はできたが、17時の交信はできず。

 GPSデータ(11-6POINT:6日引き返し地点) N29°1154.9″ E96°4710.5″ 4571m

11月7日(水) 雪のち曇りのち晴れ

 昨日よりずっと雪は降っている。8時の交信できず。昼前に沈殿を決める。昨夜から20cmほどの積雪。12時交信。いつ下りてくるのか聞いてくる。まだなにも偵察ができていない。9日分の食料、燃料を持っていることを伝える。1時半ごろ晴れてくるが、3姉妹峰方向はガスがかかっている。ゼリーなど作って食べる。17時交信。いつおりてくるのか心配している様子。BCに食料の残りが少ないとのことで早く下りてきてほしいとのこと。そんなはずはない。ABCにも余るほどあるはずである。よく探せと言う。

11月8日(木) 快晴後雪

 昨夕から風が出ている。夜中小便に起きると降るような星空であった。朝方非常に気温が下がっている。6時前に起きて準備を始める。第3峰、第2峰の頭、ルオニイの前衛峰がすばらしいモルゲンロートにうかびあがる。これを見ただけで来た甲斐がある。7時50分アンザイレンして出発。足先に感覚がなくなるほど冷えている。8時交信できず。直線的に上流へ登る。途中クレバスが何本かあったが問題なく通過。きれいな雪原をひたすら上流へ。ようやく太陽があたるところに出ると、今度は暑くなってくる。ルオニイの対岸(氷河北側)にきれいな雪のドームがある。日本に居るときから、このドームの中腹から写真を撮ることを考えていた。そのドームの方へ進路を取る。氷河の北側に寄るとクレバスが増えてくる。クレバスを左右に迂回しながらドーム基部に近づく。11時10分基部に到着。簡易測量を始める。(図参照、SOKU1地点)KG1(ルオニイ)、KG1′(西北稜上の頭)、KG1″(西北稜上の肩)、KG2、KG3、KG5を測量する。

12時交信。偵察活動を行っている旨伝える。12時10分ドームへの斜面を登り始める。ルオニイの問題の壁はかなり登っても見えてこない。雪崩も心配されるので、13時、斜面が緩くなったところを最終到達地点とする。(APOINT)ここからはアタ氷河の全貌が見渡せる。この光景を見たのはわれわれが初めてと言うことになる。概して、われわれのC1地点から、奥の第3峰のプラトーへのアイスフォールが始まる地点までは穏やかな氷河である。アイスフォールもおそらくそんなに問題なく登れそうである。ルオニイの雪のオーバーハングが挑戦的に見えている。第2峰へは30°から40°くらいの広い雪の尾根が頂上まであがっており、2003年に到達したプラトーまでゆけば技術的には問題がなさそうな尾根である。見た感じではルオニイは非常に崇高な、人を寄せ付けない長女のイメージ、第3峰はヒマラヤ襞が美しいが少し冷たくとげとげしい次女のイメージ、第2峰はおそらく3つの中ではもっとも低いが、見栄えのする立派な、それでいて素直な3女のイメージ、というところか。これはあくまで山田の感想であるが。日本に居るときに問題となっていた第3峰の右に見える山は、第3峰から北にのびた稜線上のピークであることを確認した。さらにプラトーの奥におそらく主稜線と思われるものを確認した。

13時半帰途につく。午後の氷河はまるでフライパンの上で炙られるような感じである。テントがなかなか見えない。非常に消耗する。帰り道にいろいろと考える。予定ではもう1日氷河のもっと奥へ行くこととなっていたが、新たにどうしても確認しなければならないようなものが見えるということはないだろう、中国人の精神衛生上も良くないし、自分の疲労もかなりある。明日BCへ下ることとする。テントが見えてからもなかなか近づかない。ようやく16時半C1帰着。近藤と岩澤に下山を提案する。了解してもらって、食料の食いつぶしを始める。17時交信できず。夕方より天候急変し湿雪が降り出す。温度が気持ち悪いほど暖かい。

GPSデータ(SOKU1) N29°1247.9″ E96°4639.9″(±6m) 4725m

 GPSデータ(APOINT) N29°1253.3″ E96°4644.9″ 4797m

簡易測量データ

   KG1     水平 69.4cm    ピーク 131.3cm    差(X) 61.9cm

   KG1′   水平 78.0cm    ピーク 135.4cm    差(X) 57.4cm

   KG1″   水平 81.8cm    ピーク 136.8cm     差(X) 55.0cm

   KG2     水平 83.9cm    ピーク 131.0cm    差(X) 47.1cm

   KG3     水平 61.7cm    ピーク 102.8cm    差(X) 41.1cm 

   KG5     水平 71.0cm    ピーク 102.0cm    差(X) 31.0cm


11月9日(金) 雪

暖かいのでよく寝ることができた。湿雪が降り続いている。これまでの降雪時には、わりと視界が利いて、クレバス帯の赤旗もテントから何本か見えていたが、今日の雪はガスを伴っていて、最初の旗も見えない。雪の結晶が大きく、明らかにこれまでの降雪と異なっている。テントで待機するも雪の勢いは衰えず沈殿とする。8時交信できず。12時の交信で偵察活動の終了、明日天気が良ければBCへ帰ることを伝える。われわれが下りるまでABCにて待機するよう指示する。喜んでいる様子。17時交信できず。終日トランプで時間をつぶす。湿度高く、濡れが気になる。

11月10日(土) 雪

 昨日と同じような天気である。1本目の赤旗が見えたり、見えなかったり。登って来た時のGPSトラッキングを頼りに下ることとする。途中で行き詰まってもクレバス帯でテントを張ればよい。GPSのスケールを最大にすれば、2,3mの移動もわかる。テントをたたむ。着いたときよりも雪面が50cmぐらいあがっている。ただ、クレバス帯の傾斜では雪崩が出ることはまずない。9時10分山田が先頭でGPSとにらめっこしながらアンザイレンしてクレバス帯を下り始める。全くホワイトアウトしてどこが安定した雪面かわからない。サングラスをはずして靴で雪を蹴ってとばすと雪面がどちらに傾斜しているかわかる。GPSのトラッキングのとおりに歩いていくと、ぼんやりと赤旗が現れる。赤旗が出てくるたびに安心感が湧く。1カ所、細いところで横に寄りすぎてクレバスにずり落ちそうになったが、何とかはい上がった。時々足下で堅いところがある。登りのときのトレースである。これを踏んでいる間は安心である。時々、GPSを使っても、クレバスのどちら側を行けばよいか迷う時もあったが、勘を働かせて行く。横割れから縦割れに移る頃、下の方の視界が利くようになる。4時間かけて、ようやくクレバス帯を抜けて雪原に出る。ザイルをはずしてABCへ向かう。ラッセルがきつい。交代でラッセルをする。13時45分、ABCに着くとすでにテントは撤収されていて、待てと言ってあったが誰もいない。指示が理解できなかったのか。しかもザイル3本ほかが残置されている。われわれが重い荷物を背負って下ってくることは十分わかっているはずである。明日とりにこさせようかと思うが、それも無駄なことで、われわれが持って下れば済む話だと考え直す。近藤と岩澤は元気である。食料も残置されていたが、うまそうなものを漁って持って下ろうとしている。ザイル等を分担して担ぐ。1週間ぶりに16時30分、BCへ帰る。BCでは積雪15cmぐらい。BCにはなんとヤクがすでに来ているではないか。牛と周が出迎える。話を聞くと、今日彼らはBCからABCを撤収しに行ったとのことである。後で聞いた話であるが、結局ABCは5日以降無人であったとのこと。昨日の昼の交信で李と石が拉古にヤクを呼びに行き、今日ヤク8頭とヤク工4人があがってきたとのことであった。4人だけであったので、8人用テントに入る。

夕食時に牛と話をする。彼が言うには、中国地質大学と神戸大学の登山は違いがある。中国地質大学はあくまで学生と教師の間で行う学校登山で危険なところへは行かないと言う。つまり、ルートがすでにできていて優しく登れるところ、その代わり高い山へ、という登山をやっているとのこと。つまりチョオユーやシシャパンマということになるのだろう。カンリガルポは危険すぎるとの感想である。なるほど、雀児山のときは初登頂に向けてハングリーな姿勢があったが、この20年で変わったのか、皮肉にも登山が終わってからそのことに気がつくとは。ただ、来年の本隊に向けてまだ修正はできるだろう。これも偵察隊の大きな成果だろうか。明日は拉古に下りて、明後日裏山に登ることにする。また村長に今年の天候や2,3峰の名前のことも聞きたいので、明後日訪問するということで予定を話し合った。夜中、山田、涙が出て止まらない。昼間サングラスをはずしていて雪盲になったようだ。幸い朝には良くなっていた。

11月11日(日) 晴れのち曇り

 朝から荷造りをする。撤収が完了し、10時半BCを後にする。来たときよりも順応しているので、はるかに楽に歩ける。乗越に登り、ヒョーナ平、曲尺を経てコーギンで昼食。雪もコーギンでなくなった。ヤクと一緒に拉古集落へ。16時に招待所に到着する。連絡官の出迎えを受ける。ところが、なんと今日ジープとトラックが到着して然烏まで下る予定だという。2日前に下りた李と石により、連絡官にラサより車を呼び寄せるように頼んだらしい。拉古では携帯電話が通じるのだ。明日裏山に登る予定を告げると、全員で例の「留車費」4千ドルを持ち出す。そんなこと知るか、と言いたいが結局神戸大学が払うしかなくなるのであろう。牛が言うには、大学に早く戻って仕事をしなければならないと言う。しかし、最初から11月26日までの予定で来ているはずである。また、村長は今は集落を留守にしているとのこと。日本で考えていたことがなかなか自由にできない。1時間後にジープとトラックが到着するという。万事窮す。明日朝、徳母峠への道から3姉妹峰を観察することを約束させて、然烏に下ることを同意する。

牛に交信のことで確認する。12時の交信ができたのに、8時、17時の交信ができなかったのはなぜか問うた。理由は、8時は朝早くて寝ていたらしくわざとしなかった。17時は18時と間違っていたとのこと。危機管理意識の欠落に唖然とする。言葉の問題もあったのだろうが、この辺の感覚が違う外国人との合同登山の難しさが身にしみる。

19時過ぎ、ジープとトラックが到着する。暗くなりかけた中、荷物を積んで然烏への道を帰る。

11月12日(月) 晴れ

 朝、中国人がまだ寝ている時間に連絡官と朝食。そのときに、外国人がラサへ行くには途中の未開放地域を通るため波密県公安の許可がいるが、これから交渉するとのこと。だめだったら当初予定どおり芒康へ戻るので早く帰ってくるようにとのこと。8時ジープに日本人3人が乗って、徳母峠への道を行く。ベンゲンの東側に出る頃、中村保さんの写真のポイントに着く。1,2峰は見えるが3峰は雲の中である。早速水準器を出してかざして見ると、1峰、2峰、ザッド(前山)がほぼ水平線上に並んでいることがわかる。と言うことは、1峰の方が遠いので、2峰より1峰の方が高いことがわかる。ザッドと3峰では、3峰の方が高く見えるはずなので、単純に1峰、2峰との高さ比較はできない。少なくとも中村さんの写真はかなり左下がりに傾いていることがわかった。GPSデータ収集、写真撮影を行って、然烏に10時に帰る。

 連絡官はラサへの許可が出ないという。地質大学の連絡が悪いせいだと怒っている様子である。芒康へ戻ることとなる。今朝武漢の董さんから連絡があり、チベット登山協会、中国登山協会、中国地質大学の3者で登山料が23,000ドルに決まったので、明日中に日本から送金してほしいとのこと。八宿で井上会長に電話することとする。

 八宿で昼食。井上さんに電話で状況報告する。八宿を出発し左貢へ向かう。邦達で連絡官からお茶と揚げパンをごちそうになる。暗くなる19時半頃左貢に到着。

GPSデータ(1112POINT:中村撮影地点) N29°2239.2″ E96°5316.3″ 4350m

11月13日(火)  快晴

 今日は芒康までなのでゆっくりと10時30分に出発する。行くときに通った東達拉は一面の雪原となっている。岩澤が、山に入っている間に季節が移り代わったとうまいことを言う。

 16時芒康到着。中国人は明日の中甸までの車の手配に行く。2台の1ボックス軽で明日中に中甸まで戻るよう手配したとのこと。ただ、徳欽までの公路がまだ修理中なので来たときと同じ得栄経由とのこと。飛来寺の船原の碑に詣でる計画ができなくなったため、いったん中甸に戻ってから、日本人だけで徳欽へ行くこととする。

 夜、山羊の火鍋を食べに行く。岩澤はこれが苦手で一口も食べない。一方、近藤は中国人にのせられて白酒の乾杯をやりすぎて、路上で戻す始末。

11月14日(水) 晴れのち雪

 朝8時、連絡官と分かれて、1ボックス軽2台で出発。西江を下り金沙江大橋を渡りチベットから出る。得栄で昼食。別の車に替えて中甸に向かう。金沙江より中甸高原へあがる頃より雪が降り始め車のスピードが落ちる。暗くなるころ、幻のように暗闇から中甸の街明かりが見える。まさにシャングリラである。19時15分、快活林大酒店というホテルに到着。着いたとたんに停電となる。ローソクのなか夕食を取る。結局写真の検閲もなかった。

11月15日(木) 雪

 昨日よりずっと雪である。朝7時に徳欽に向かうべく、手配していたジープが来るが、運転手の話では、大雪で行けば今日中には戻れないという。ここまで来て飛来寺に行けないとは。仕方なく取りやめる。帰りの飛行機の予約変更の手配や井上会長への帰国予定の電話をする。明日昆明、上海大阪便が混んでいて、19日に帰国の予定と決まる。

 昼食後、市内の土産物屋へ行く。

11月16日(金) 雨(中甸)、晴れ(昆明)

 雪から雨に変わっている。ホテルを8時に出発。9時半の飛行機だったが、昆明からのからの到着が遅れている。10時20分離陸。11時5分昆明到着。暖かい。さすがに別名「春城」だけのことはある。空港で中国地質大学のメンバーと別れる。彼らは、今日の4時の便で武漢に帰る。タクシーにのって春城花園飯店へ。昼食は近くの軽食店でチャーハン、麺を食う。午後、近くのスーパーへ行って土産の食料品の試食を購入。日本以来の風呂に入る。部屋の中では下着で過ごせる。チベットの寒い室内と違って何という開放感か。夜は路上テーブルでうまい夕食を取る。

11月17日(土) 晴れ

 世界遺産の石林の観光に行く。8時に迎えの車が来て、中国人ばかりのツアーに入る。途中、岩泉禅寺に寄るがガイドの説明が皆目分からない。石林でも少数民族衣装のガイドについて4kmほどのコースを見物するが、説明がわからない。最後に土産物屋に寄って昆明に帰る。日本のバスツアーによく似ている。夜は近くの飯屋に行く。材料を選べば適当に調理をしてくれる店であるが、中国に来てから一番うまかった。

11月18日(日) 雨のち曇り

 市内をぶらつくという岩澤を残して、近藤と世界園芸博公園に見物に行く。各省庭園や各国庭園を見るが、すでに過去の遺物のようになっている。2時にホテルへ帰って、スーパーで土産の買い物。夜は昨日のうまい店に再度行く。新聞に徳欽が大雪となっていて、白芒山口の通行ができなく観光客がカンヅメになっていることが報じられている。もし行っていれば戻れなかっただろう。いよいよ明日帰国する。この3日間の昆明滞在は居心地がよく、われわれにとって良い骨休めになった。

11月19日(月) 

 8時過ぎにホテルのチェックアウト。2台のタクシーで空港へ。チェックインで荷物超過30kgで870元とのこと。中国元は残り500元ぐらいしかない。米ドルで払うというと駄目だとのこと。銀行も近くにないらしい。どうするのかと言っていると、どうもうやむやにしたらしく、金を払うことなくパスポートと搭乗券をすんなりと渡してくれた。ところが、安全検査でトランシットと酒が引っかかり、再度荷物を預けに行く。受付嬢は渋い顔をして荷物の追加手続きをしてくれた。ようやく上海行きの飛行機に乗り込む。

 上海虹橋空港ではスムーズに浦東空港行きのバスに乗り込み50分で浦東空港へ。超過料金対策のため、預ける荷物を一つ減らし、機内持ち込みを増やした。これが利いて、国際線では17kgオーバーだったがまけてくれた。予定どおり18時離陸。関西国際空港に日本時間21時に到着した。やっと4週間の偵察行が終わった。