故 西村勝比古 先生
氷の山のヒユッテがどうしてできたか、どのような苦労があったかは、しだいに伝説になりかけている。その意味でこの際、私なりの由来記を書いておきたいと思う。
昭和35年(1960年)、たまたま私が御影分校主事になった夏、ちょうど安保闘争が大荒れに荒れた7月、学校登山で立山に入ったことがある。そのとき同行した林市雄君から弘法小屋が十万円台で買えるという話を聞いて、私も乗気になったのは事実である。いのは千寿原からケ−ブル、さらにバスで室堂まで直行できるが、ケ−ブルがつく十数年前までは、栗須野から藤橋を経て八郎坂を登り、弘法小屋を通らなくては行けなかった。それほどそこがかつては立山への要地であったが、文明の波に押されて弘法小屋の利用価値も減少し、しだいに廃れていった。その時「売り」の話が出たのである。
当時、名の知れたほとんどの大学が北アルプスのどこかに山小屋をもっていた。したがって神戸大学にも是非、どんなに粗末でもよいから欲しいというのが念願であった。早速このことを高木さん(当時の山岳部長)
に連絡し、具体的交渉のため金沢、高山に急行していただいた。大学全体で買えなければ、十万円台であれば、分校で買ってもよいとさえ私は思っていた。しかし、結論としては、そこが国立公園であったり、その外の事情があって弘法小屋はついに入手できなかった。
ところがたまたま昭和36年2月頃、丹戸の中村健治さんから、神戸の「あるこう会」(?)所有の千本杉ヒュッテを無償で譲ってもよいという話が持ち込まれた。そこで野中学生部長を中心に、高木、林、私、それに会計課の酒井氏が集まって中村さんから事情を聞いた。天井や床が腐っているが、二、三十万かけて修理すれば、立派に使用できるということで、その位なら国費でも出せるし、何とかなるというので皆が大乗気にこの話に飛びついたことはいうまでもない。
ところが、雪解けの春に現地に行ってしらべた結果は、修理不可能という結論に達した。しかし氷の山へわれわれの小屋をというム−ドが山岳部はもとより大学にもあったので、何とかして建築を進めることとなった。いまの場所は当時あった所より百米位南下しており、眺望も良く、水も便利であるので、地理的条件としては結果として良かったわけであるが、三十万円位という当初の予定が、百万円をこえる建築費となった。そしてこれは国費、育友会費、先輩からの寄付の外、現役諸君の労力奉仕、加えて、中村健治さんの絶大な協力、現地での杉材の払下げなどでまかなわれて非常に安くできたわけである。そして、36年末には現地の雪降る中で盛大な竣工式が行われた。
その後も水源地の設定、土管の設置、外装のペンキ塗り、また毛布の貸与もうけて(ほとんど寄付で)次第に整備され、国費での内部設備の充実によって、今日みられるものになった。
これ以外にも竣工までにはさまざまなことがあったし、いまでもペンキ塗りに励んでいた篠原君や東中君などの姿を思い浮かべる。重いスト−ブを荷上げしたのも、主として現役諸君の労力によるものであり、大学と山岳部が一体となってできた文字通り汗の結晶である。
私がこれを書いたのは、氷の山ヒュッテができた当時の山岳部の努力をいつまでも忘れないでいただきたいためで、そう簡単にできるものでないことを知っていただきたい。
二、三年前からアルプスのどこかへ山小屋をという声がでてきている。私も是非欲しいと思っている。それがいつの日か。ともかく私の学生部長在任中は、そこまでいかないことだけは確実である。
この文は1968年5月発行の神戸大学山岳部・山岳会機関誌「山と人9号」に掲載されたものです。
ヒユッテ建設のいきさつが簡明に記されています。
Site編集者 (2007/10/18 T.I.)
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